津軽三味線の歴史
津軽三味線は始祖・仁太坊(にたぼう)が明治のはじめに編み出した音楽です。
太棹三味線を使い始めたのも仁太坊でした。
楽曲の原型は越後(現在の新潟県)の「ごぜ」の三味線といわれています。
それが津軽地方に伝わり発展しました。
しかし、津軽三味線のルーツは坊様(ぼさま)と呼ばれた目の不自由な男性の門付け芸でした。
津軽地方では長く蔑まされていて、文献はごくわずかで、歴史は比較的浅いものの、その歴史をたどる事が難しいのが現状です。
明治に梅田豊月という名人が現れ、今日の津軽三味線が確立されました。
また、仁太坊の弟子に白川軍八郎(しらかわぐんぱちろう)という人がいました。
「津軽三味線の神様」と呼ばれる人です。
そして、「叩き三味線の名手」といわれた木田林松栄という人もいました。
この人は現在東京近辺で活躍している、ほとんどの津軽三味線の師匠といわれる人達は、この人の影響を受けているといわれています。
梅田豊月の弟子の一人に東津軽の藤沢の坊様がいました。
その、藤沢の坊様の弟子が、戦後の津軽三味線の頂点に立っていた高橋竹山でした。
津軽三味線は他の三味線音楽とは異質な音楽として発展しています。
太棹を使用し、奏法は「たたき」を中心とする打楽器的な奏法が主であります。
これは目立つため、派手な技を追求した結果といえるようです。
昭和40年代の民謡ブームに三橋美智也らが「津軽三味線」と称して以降定着しました。
本来は伴奏楽器として演奏するものでしたが、次第に独奏楽器として前奏部分(前弾き)が独奏として独立していきました。
現在では世界的に活躍する奏者も増え、全国大会を積極的に開催し、広く普及してきています。