三味線の歴史

三味線の起源~三味線音楽

三味線は15~16世紀位に成立したといわれています。
箏や尺八に比べると比較的新しい楽器といえます。
もともと中国の沖縄の蛇味線(蛇皮線、三線)に似た「三弦」が起源といわれています。
三弦
そこから琉球(現在の沖縄)に伝わり、本州へと入り、琵琶法師が改良し、三味線になったいわれています。
ですが、これには諸説あり石村検校が琉球から胡弓を持ち帰り、改良して三味線を作ったという説や、
琵琶の職人が、蛇味線を基に三味線を作り、その後盲目となり、石村検校を名乗った等あり、完全にははっきりしていないのが現状です。
ですが、蛇味線が基になっているのは共通していますので、起源としては中国→琉球→本州という流れでしょう。
また、蛇味線は義爪で弾きますが、三味線は撥を使います。
これは当時「平曲(琵琶による弾き語り)」があり、琵琶は撥を使います。
ですから琵琶の演奏者か製作者が関わっていたと考えるのが妥当でしょう。

三味線音楽のおこり

地歌とは三味線伝来位に上方(京都や大阪)で始まったといわれています。
当道座(箏の歴史参照)の盲人音楽家が主に演奏していました。
その中でも石村検校が三味線音楽興隆の祖といわれています。
そして、後に三味線の名手でもあった八橋検校が、地歌三味線を基に「箏曲」を大成させました。
現在でも「地歌」といえば三味線と箏の合奏形式(これに胡弓または尺八を加えたものが三曲合奏)が一般的です。

また柳川応一(?~1680)という音楽家がそれまでに作られていた三味線の歌曲を集めて、改作したり新しく作曲行いました。
これは歌詞の上で、いくつかの短い歌を組み合わせられている形で、箏の「組歌」と同じような定式でした。
こうした曲を、基本的なものという意味で「本手(ほんて)」と呼び、現在ではこれを「三味線組歌」といっています。
この「三味線組歌」合奏でなく独奏でした。
その後、組歌形式の「本手」に対して、歌詞上では一曲を通じて長いまとまりをもった「長唄」と呼ばれる組曲形式のものが作られ、
さらに、長唄に対して劇場で用いられたり、芸術性の高い演奏の場以外で演奏された曲を「端唄(はうた)」と呼び、江戸末期から明治時代にかけて流行しました。

また浄瑠璃は最初は琵琶での伴奏が一般的でしたが、17世紀初めに三味線が採用されて以来急速に広まり、竹本義太夫が浄瑠璃諸派を集大成し、「義太夫節」を確立しました。
歌舞伎においては一中節や河東節がありました。特に一中節から生まれた豊後節が流行しましたが、風紀を乱す事を理由に禁止され分派し、
「常盤津節」や「清元節」が現在でも歌舞伎音楽として残り、「新内節」が座敷浄瑠璃として確立しました。
明治期には民謡を三味線の伴奏で歌う「俗謡」「浪曲」「女義太夫」などが流行し、「一中節」「宮薗節」「荻江節」「河東節」なども再興され、三味線音楽の全盛期となりました。

他の和楽器の尺八や箏などと比べると、とてもたくさんのジャンルがあるのが三味線音楽の特徴です。
これは庶民に広く浸透し、好まれた証拠といえるでしょう。

津軽三味線

津軽三味線は始祖・仁太坊(にたぼう)が明治のはじめに編み出した音楽です。
太棹三味線を使い始めたのも仁太坊でした。

楽曲の原型は越後(現在の新潟県)の「ごぜ」の三味線といわれています。
それが津軽地方に伝わり発展しました。
しかし、津軽三味線のルーツは坊様(ぼさま)と呼ばれた目の不自由な男性の門付け芸でした。
津軽地方では長く蔑まされていて、文献はごくわずかで、歴史は比較的浅いものの、その歴史をたどる事が難しいのが現状です。

明治に梅田豊月という名人が現れ、今日の津軽三味線が確立されました。
また、仁太坊の弟子に白川軍八郎(しらかわぐんぱちろう)という人がいました。
「津軽三味線の神様」と呼ばれる人です。
そして、「叩き三味線の名手」といわれた木田林松栄という人もいました。
この人は現在東京近辺で活躍している、ほとんどの津軽三味線の師匠といわれる人達は、この人の影響を受けているといわれています。

梅田豊月の弟子の一人に東津軽の藤沢の坊様がいました。
その、藤沢の坊様の弟子が、戦後の津軽三味線の頂点に立っていた高橋竹山でした。

津軽三味線は他の三味線音楽とは異質な音楽として発展しています。
太棹を使用し、奏法は「たたき」を中心とする打楽器的な奏法が主であります。
これは目立つため、派手な技を追求した結果といえるようです。

昭和40年代の民謡ブームに三橋美智也らが「津軽三味線」と称して以降定着しました。
本来は伴奏楽器として演奏するものでしたが、次第に独奏楽器として前奏部分(前弾き)が独奏として独立していきました。

現在では世界的に活躍する奏者も増え、全国大会を積極的に開催し、広く普及してきています。

-三味線, 三味線の基本