当道座と検校とは?箏曲・地歌を支えた音楽家たちの組織

箏曲や地歌の歴史を調べると、「八橋検校」「生田検校」「山田検校」「菊岡検校」など、「検校」という名前を持つ音楽家が数多く登場します。
検校は人の名字ではありません。中世から近世にかけて存在した、視覚に障害のある男性の組織「当道座」における最高位の名称です。
当道座は、構成員の仕事と生活を支えるとともに、平家琵琶、地歌、箏曲などの音楽を伝える役割を担いました。現在演奏されている多くの古典曲も、当道座に属した音楽家たちによって作曲、整理、伝承されたものです。
この記事では、当道座の仕組みと検校の意味、箏曲・地歌の発展との関係を紹介します。
※当時の制度名や史料では「盲人」「盲官」という言葉が使われています。本記事では、歴史上の用語として必要な箇所に限って使用します。
当道座とは?
当道座は、中世から明治初期まで続いた、視覚に障害のある男性による自治的な職能組織です。
単に音楽家が集まった団体ではなく、構成員の仕事を守り、身分や位階を管理し、生活を支える互助組織としての性格を持っていました。
当道座に属する人々が携わった仕事には、次のようなものがあります。
- 平家琵琶の演奏と『平家物語』の語り
- 地歌・箏曲・胡弓の演奏や教授
- 鍼、灸、按摩
- 金銭の貸し付け
時代や地域によって状況は異なりますが、当道座は視覚障害者が職業を得て、技術を身につけ、社会の中で生活していくための重要な仕組みでした。
平家琵琶から始まった当道の歴史
当道座の歴史は、『平家物語』を琵琶で語った琵琶法師と深く関係しています。
鎌倉時代から室町時代にかけて、琵琶法師たちは各地で『平家物語』を語りました。語り方や節回しにはさまざまな系統がありましたが、14世紀に活躍した明石覚一が詞章や語り方を整理し、現在知られている『平家物語』の重要な系統をまとめました。
明石覚一は当道の位階や組織を整えた人物ともされ、室町幕府の保護を受けながら、当道座が組織化されていきました。
江戸時代になると、当道座は幕府の保護を受け、京都や江戸に組織を管理する職屋敷が置かれました。職屋敷では、位階に関する手続き、技芸の確認、組織内の争いの処理などが行われました。
このように当道座は、音楽の流派であると同時に、構成員の仕事や生活を管理する社会的な組織でもありました。
検校とは?
検校は「けんぎょう」と読みます。
当道座には、上から順に次のような官位がありました。
- 検校(けんぎょう)
- 別当(べっとう)
- 勾当(こうとう)
- 座頭(ざとう)
これらの官位はさらに細かく分けられ、長い段階を経て昇進する仕組みになっていました。
検校は、その中で最も高い位です。
そのため、「八橋検校」という名前は、八橋という音楽家が当道座の最高位である検校に就いていたことを表しています。「検校」という名字の人物だったわけではありません。
また、検校は純粋な音楽技術だけを示す称号ではありません。当道座における組織上の地位であり、所属関係や昇進の手続きなども関係していました。
ただし、現在まで名前が伝わる検校の中には、優れた演奏家や作曲家が多く、箏曲・地歌の歴史に大きな足跡を残しています。
なぜ箏曲家に「検校」が多いのか
江戸時代の箏曲や地歌は、当道座に属する音楽家たちの重要な職域でした。
当道座の音楽家は、自ら演奏するだけでなく、弟子を育て、曲を作り、奏法や調弦を整理しました。師匠から弟子へと音楽を伝える仕組みが作られたことで、楽譜だけでは残しにくい細かな節回しや間、歌い方、奏法も受け継がれていきました。
箏曲や地歌の作曲者に検校や勾当の名が多く見られるのは、この音楽が当道座の中で発展したためです。
箏曲を築いた八橋検校
八橋検校は、江戸時代前期に活躍した音楽家で、近世箏曲の基礎を築いた人物として知られています。
八橋検校は、もともと三味線の名手でしたが、筑紫流箏曲を学び、箏の音楽を新しく整理しました。
八橋検校の功績として、次のようなものが挙げられます。
- 箏組歌の整理
- 段物と呼ばれる器楽曲の確立
- 平調子の考案
- 箏の奏法や音楽形式の整理
代表曲として伝えられる「六段の調」も、八橋検校の作品とされています。
八橋検校によって、箏は宮廷や寺院を中心とした楽器から、より広い人々が親しむ音楽へと発展していきました。
生田検校と地歌・箏曲の結びつき
生田検校は、江戸時代中期に生田流箏曲の基礎を築いた人物です。
生田検校は、三味線を伴奏とする地歌と箏曲を結びつけ、箏と三味線を一緒に演奏する形式を発展させたと伝えられています。
この流れから、地歌三味線と箏が互いの旋律を支え合う、地歌・箏曲の合奏形式が形成されました。
生田流は京都や大坂を中心に発展し、後に名古屋、九州など各地へ広がります。現在行われている三曲合奏にもつながる重要な流れです。
山田検校と江戸の箏曲
山田検校は、江戸時代後期に山田流箏曲を創始した人物です。
それまでの箏曲は上方を中心に発展していましたが、山田検校は江戸で親しまれていた浄瑠璃や三味線音楽の要素を取り入れ、物語性と歌を重視した箏曲を作りました。
山田流では、箏の演奏技術だけでなく、歌詞の内容を伝える声の表現が重視されます。
生田流と山田流は、どちらも八橋検校以後の箏曲を受け継ぎながら、それぞれ異なる地域と音楽文化の中で発展しました。
地歌の作曲家にも検校や勾当が多い
地歌の作品にも、検校や勾当の名を持つ作曲家が数多く登場します。
菊岡検校、光崎検校、松浦検校、石川勾当などは、現在も演奏される地歌・箏曲の名曲を残した音楽家です。
地歌の曲には、三味線だけで演奏されていた作品に、後の音楽家が箏の旋律を加えたものもあります。この箏の旋律を付けることを「箏の手付」と呼びます。
一つの作品が師弟関係や地域を越えて受け継がれ、新しい箏の手や替手が加えられたことで、地歌・箏曲は豊かな合奏音楽へと発展しました。
当道座が音楽の伝承に果たした役割
当道座の存在は、箏曲や地歌の伝承に大きな影響を与えました。
音楽を職業として続けられた
演奏や教授が職業として認められたことで、音楽家が長い時間をかけて技術を磨き、弟子を育てる環境が作られました。
師弟関係によって曲が伝えられた
曲の旋律だけでなく、歌い方、間の取り方、細かな奏法などが、師匠から弟子へ直接伝えられました。
各地に音楽の系統が広がった
音楽家の移動や師弟関係を通じて、京都、大坂、江戸、名古屋、九州などに異なる系統や流派が生まれました。
優れた作曲家が活躍した
当道座の中から多くの演奏家や作曲家が生まれ、現在の古典箏曲・地歌を構成する作品が蓄積されました。
当道座には厳しい身分制度や職業上の制約もありましたが、音楽を継続的に伝える仕組みとして重要な役割を果たしたことは確かです。
当道座の廃止
明治4年(1871年)、盲官廃止令によって当道座の制度は廃止されました。
当道座によって守られていた職業上の仕組みも失われたため、多くの構成員の生活に深刻な影響が生じました。箏曲や地歌の世界も、それまでの伝承制度を大きく変える必要に迫られます。
その後は、各地の箏曲家や地歌家、京都當道会、盲学校などが音楽の伝承を担いました。明治以降には女性や晴眼者の演奏家も増え、箏曲・地歌は近代的な演奏会や学校教育の中にも広がっていきます。
当道座の廃止後も、箏曲団体の中では「検校」などの称号が使われることがありました。ただし、これは江戸時代の当道座における官位とは区別して考える必要があります。
まとめ
当道座は、中世から明治初期まで続いた、視覚に障害のある男性による自治的な職能組織です。
検校は、その当道座における最高位の名称でした。
当道座に属した音楽家たちは、平家琵琶、地歌、箏曲などを演奏し、作曲し、弟子へ伝えました。八橋検校、生田検校、山田検校をはじめとする音楽家の活動によって、現在につながる箏曲や地歌の基礎が築かれています。
古典曲の作曲者名に付いている「検校」や「勾当」の意味を知ると、その曲が生まれた時代の社会や、音楽を伝えてきた人々の姿も見えてきます。
箏曲や地歌は、作品だけが残ってきたのではありません。音楽を仕事として守り、師匠から弟子へ受け継いできた人々の歴史とともに、現代まで伝えられてきたのです。