歴史・人物

宮城道雄とは?「春の海」と十七絃で近代箏曲を切り開いた生涯

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

宮城道雄(みやぎ・みちお)は、明治から昭和にかけて活躍した箏曲家・作曲家・演奏家です。

正月の音楽として広く親しまれている「春の海」の作曲者であり、低音用の箏である十七絃を考案した人物としても知られています。

宮城道雄の功績は、単に有名な曲を残したことだけではありません。古典箏曲を大切にしながら西洋音楽の要素を取り入れ、楽器の開発、教育、楽譜出版、録音、ラジオ放送などを通して、箏曲を現代へとつなぐ新しい道を切り開きました。

神戸に生まれ、幼くして箏の道へ

宮城道雄は1894年、現在の兵庫県神戸市に菅道雄として生まれました。

幼い頃に目の病気を患い、8歳頃までに視力を失います。その後、生田流の二代中島検校に入門して箏を学び、11歳で免許皆伝を受けました。師匠から「中島」の一字を許され、「中菅道雄」という芸名を名乗っています。

家庭の事情から13歳で朝鮮半島の仁川へ渡り、箏や尺八を教えて家計を支えました。14歳のときには処女作「水の変態」を作曲しています。

「水の変態」は、水が霧、露、雨、雪などへ姿を変えていく様子を描いた作品です。若い頃から、自然の情景を音で表現する宮城道雄の感性が表れています。

この作品は伊藤博文からも評価され、上京後の援助を約束されたと伝えられています。しかし、間もなく伊藤博文が暗殺されたため、その約束は実現しませんでした。

朝鮮箏曲界で認められ、東京へ進出

その後、道雄は京城、現在のソウルへ活動の場を移します。結婚を機に宮城姓を名乗るようになり、22歳のときには箏曲団体から「大検校」の称号を受けました。

ここでいう大検校は、江戸時代の当道座における公的な官位ではなく、近代の箏曲団体が授けていた称号です。

朝鮮箏曲界で高い評価を得ていた宮城道雄でしたが、新しい音楽を追求するため、1917年に東京へ移りました。1919年には本郷春木町の中央会堂で第1回自作箏曲演奏会を開催し、作曲家として本格的な活動を始めます。

伝統を土台に新しい箏曲を作る

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

宮城道雄は、古典箏曲を否定して西洋音楽へ転向した音楽家ではありません。

古典の演奏にも優れ、その繊細で緻密な演奏は高く評価されていました。その一方で、従来の箏曲にはなかった合奏法、変奏曲形式、協奏曲的な構成などを取り入れ、箏による新しい音楽表現を探究しました。

宮城道雄を中心としたこうした動きは、後に新日本音楽と呼ばれるようになります。

新日本音楽は、西洋音楽をそのまま邦楽に置き換えるものではありません。箏、三絃、尺八などが持つ固有の音色や奏法を生かしながら、近代的な作曲技法や編成を取り入れようとした音楽運動です。

発表当初、宮城道雄の作品は文学者や洋楽関係者から評価された一方、邦楽界からは批判を受けることもありました。それでも創作を続けたことで、箏曲の新しいレパートリーが次々と生まれました。

代表曲「春の海」

宮城道雄の作品の中で、最も広く知られているのが「春の海」です。

「春の海」は1929年に作曲された、箏と尺八のための二重奏曲です。翌1930年の宮中歌会始の勅題「海辺巌」にちなんで作られました。

宮城道雄が幼少期に親しんだ瀬戸内海の風景をもとに、穏やかな波、舟を漕ぐ艪の音、鳥の声などが音楽によって描かれています。箏の細やかな動きと尺八の伸びやかな旋律が交わり、春の海辺を思わせる情景が広がります。

1932年、来日していたフランス人ヴァイオリニストのルネ・シュメーは「春の海」に感銘を受け、尺八のパートをヴァイオリン用に編曲しました。宮城道雄の箏とシュメーのヴァイオリンによる共演は好評を博し、その録音は日本だけでなく、アメリカやフランスでも発売されました。

「春の海」は本来、箏と尺八のために書かれた作品ですが、この共演をきっかけに、箏とヴァイオリンによる演奏も広く知られるようになりました。

宮城道雄とルネ・シュメーの演奏を聴く

宮城道雄とルネ・シュメーによる「春の海」は、現在も復刻音源で聴くことができます。

以下の動画では、宮城道雄自身の箏と、シュメーのヴァイオリンによる1932年の録音が紹介されています。

古い録音のためレコード特有のノイズはありますが、宮城道雄本人の箏の音色や間の取り方を知ることのできる貴重な音源です。

原曲の尺八が持つ息遣いや余韻を、ヴァイオリンがどのように表現しているかに注目すると、箏と尺八による演奏とは異なる魅力も感じられます。

この共演は、「春の海」が和楽器の枠を越え、異なる楽器や文化の中でも受け入れられる作品であることを示した重要な出来事でした。

宮城道雄の主な作品

宮城道雄は、独奏曲、箏と尺八の二重奏、箏合奏、三絃を含む作品、管弦楽との協奏曲など、多様な編成の作品を残しました。

代表的な作品には次のようなものがあります。

水の変態

14歳で作曲した処女作です。水がさまざまな姿へ変化する様子を、歌と箏によって描いています。

落葉の踊り

箏、三絃、十七絃による合奏曲です。十七絃の低音が加わることで、従来の箏曲とは異なる厚みのある響きが生まれています。

瀬音

箏と十七絃のための二重奏曲です。箏の細やかで流動的な旋律と、十七絃の深く力強い低音によって、絶えず流れ続ける水の動きが描かれています。

宮城道雄が考案した十七絃の表現力を生かした代表的な作品の一つで、二つの楽器が緊密に掛け合いながら、穏やかな流れから勢いを増す瀬の響きまでを表現します。

越天楽変奏曲

雅楽の「越天楽」を題材にした変奏曲です。日本の伝統的な旋律をもとに、近代的な合奏曲へと発展させています。

春の海

箏と尺八の二重奏曲として作曲され、後にヴァイオリンとの演奏によって海外にも広まりました。

手事

戦後に作曲された、箏と三絃による作品です。古典地歌における手事の感覚を受け継ぎながら、新しい合奏表現へと発展させています。

このほか、「さくら変奏曲」「砧」「壱越調箏協奏曲」「祝典箏協奏曲」「さらし風手事」「飛鳥の夢」などが知られています。

十七絃の考案

宮城道雄の重要な功績の一つが、十七絃の考案です。

従来の十三絃箏は、中音域から高音域の表現に優れていますが、合奏の土台となる低音域には限界がありました。宮城道雄は胴を大型化し、太い絃を17本張ることで、深く豊かな低音を持つ新しい箏を作りました。

十七絃が加わったことで、箏合奏に低音の旋律やリズムの支えを置けるようになり、音楽全体の響きが大きく広がりました。現在では現代邦楽、箏合奏、独奏曲などで欠かせない楽器の一つとなっています。

宮城道雄は十七絃以外にも、次のような楽器を考案しました。

八十絃は、広い音域と和洋両方の音楽への対応を目指して作られた、80本の絃を持つ箏です。

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

短琴は、箏を持ち運びやすくし、より広く普及させることを目的とした小型の箏です。

大胡弓は、従来の胡弓よりも音量と音域を広げるために作られました。

これらすべてが現在広く使われているわけではありませんが、楽器そのものを改良して新しい音楽を作ろうとした宮城道雄の姿勢を示しています。

箏曲教育と楽譜の普及

宮城道雄は、演奏家や作曲家としてだけでなく、教育者としても大きな役割を果たしました。

1930年に東京音楽学校、現在の東京藝術大学音楽学部の講師となり、1937年には教授に就任しました。また、五線譜や絃名を用いた楽譜を活用し、初心者向けの箏・三味線教則本も執筆しています。

伝統的な口伝や師弟関係を大切にしながらも、楽譜や教材によって多くの人が学べる仕組みを整えたことは、近代の邦楽教育における重要な転換でした。

ラジオと録音によって箏曲を広める

宮城道雄は、当時登場したばかりのラジオやレコードにも積極的に関わりました。

1925年にはラジオ試験放送の初日に出演し、その後も正月放送、海外との交歓放送、国際放送、ラジオによる箏曲講習などを行いました。1950年には、こうした放送文化への貢献によって第1回放送文化賞を受賞しています。

放送や録音によって、演奏会場や稽古場へ足を運べない人にも箏の音が届くようになりました。宮城道雄は、新しいメディアを用いて邦楽を広めた先駆的な音楽家でもあったのです。

音楽家であり、随筆家でもあった

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

宮城道雄は多くの随筆も残しました。

友人であった小説家・内田百閒から文章を書くことを勧められ、「夢乃姿」や「雨の念仏」などを発表しています。随筆には、音や自然に対する感覚、日常生活、作曲の背景、周囲の音楽家との交流などが描かれています。

目で風景を見ることができなくても、音、風、雨、空気の動き、人の気配を細やかに捉えていたことが、宮城道雄の音楽と文章の両方から伝わってきます。

作曲家の作品だけでなく、本人の随筆を読むことで、「春の海」や「瀬音」に表された音の風景をより深く感じられるでしょう。

62歳で迎えた突然の死

1956年6月25日、宮城道雄は「越天楽変奏曲」の演奏のため大阪へ向かっていました。

その途中、東海道線の急行「銀河」から刈谷駅付近で転落し、同日、62歳で亡くなりました。あまりにも突然の死でしたが、その作品や演奏、教育法は門人たちによって受け継がれ、現在も広く演奏されています。

宮城道雄が箏曲に残したもの

宮城道雄の功績は、大きく四つにまとめられます。

第一は、「春の海」をはじめとする新しい箏曲作品を生み出したことです。

第二は、十七絃などの楽器を考案し、箏の音域と合奏表現を広げたことです。

第三は、楽譜、教則本、学校教育を通して、箏曲を学ぶための仕組みを整えたことです。

第四は、レコードやラジオを活用し、日本国内だけでなく海外にも箏曲を紹介したことです。

宮城道雄は、古典を過去の音楽として保存するだけでなく、その精神と技法を新しい作品へ生かしました。そのため、宮城道雄の作品は近代箏曲の歴史を知るうえで重要であると同時に、現在も演奏され続ける生きたレパートリーとなっています。

まとめ

宮城道雄は、「春の海」の作曲者としてだけでは語り尽くせない音楽家です。

幼い頃に視力を失いながら箏の技術を磨き、作曲、演奏、楽器開発、教育、放送、執筆など、幅広い分野で活動しました。

古典箏曲を深く理解したうえで新しい表現を取り入れたからこそ、宮城道雄の音楽には、箏本来の余韻や繊細さと、近代的な構成の両方が共存しています。

十七絃が現代の箏合奏を支え、「春の海」が今も正月や演奏会で親しまれていることからも、その影響の大きさを知ることができます。


よくある質問

宮城道雄の最も有名な曲は何ですか?

最も広く知られているのは「春の海」です。1929年に箏と尺八の二重奏曲として作曲され、後にヴァイオリンとの演奏によって海外にも広まりました。

「春の海」は箏とヴァイオリンの曲ですか?

原曲は箏と尺八のための作品です。1932年にヴァイオリニストのルネ・シュメーが尺八パートをヴァイオリン用に編曲し、宮城道雄と共演しました。

十七絃は宮城道雄が作ったのですか?

宮城道雄が低音域を補うために考案した楽器です。十三絃箏より大型で太い絃を備え、現在も箏合奏や現代邦楽で使用されています。