歴史・人物

箏の歴史|大陸からの伝来、八橋検校、宮城道雄、現代まで

箏は、奈良時代に大陸から伝わった楽器文化の中で受容され、雅楽の楽箏、近世の箏曲、明治以降の制度変化、宮城道雄を中心とする近代化、そして現代邦楽へと長い時間をかけて姿を変えてきました。

現在「こと」と呼ばれる楽器は日常的に「琴」と書かれることもありますが、柱を立てて音の高さを整える楽器としては「箏」と表記するのが基本です。この記事では、楽器としての箏を中心に、時代ごとの流れを整理します。基本的な楽器の構造や種類は、先に箏とは?もあわせて確認してください。

箏の起源と大陸からの伝来

箏の源流は、中国大陸を中心に発達した長い胴を持つ撥弦楽器の系譜にあります。日本には、律令国家の形成や大陸文化の受容とともに、雅楽の楽器や音楽制度の一部として伝わりました。

ただし、箏が日本へ入った年を一つに断定することはできません。奈良時代を中心に、大陸からの音楽・舞・楽器文化が受け入れられる中で、箏も日本の宮廷音楽に取り込まれていったと考えるのが自然です。

奈良時代・平安時代の箏

奈良時代には、唐楽をはじめとする外来音楽が宮廷で整えられ、箏もその楽器編成の中で用いられました。平安時代になると、宮廷文化の中で音楽は教養や儀礼と深く結びつき、箏も貴族社会の音楽的な素養を示す楽器の一つとして扱われます。

一方、日本には古くから和琴・倭琴と呼ばれる在来系の弦楽器もありました。箏の歴史を見るときは、大陸由来の箏と、日本列島で用いられてきた弦楽器文化を混同しすぎないことが大切です。

雅楽で使われた楽箏

雅楽で使われる箏は、近世以降の箏曲で用いられる箏と区別して「楽箏」と呼ばれます。楽箏は合奏の中で響きを支え、管楽器や打楽器とともに雅楽独自の音響を形作ります。

現在の箏曲で聴かれる細かな左手奏法や歌との結びつきは、後の時代に発展したものです。楽箏は、現代の十三絃箏と連続する部分を持ちながらも、役割や音楽的文脈が異なる楽器として見る必要があります。

中世における箏の伝承

中世には、宮廷中心の音楽文化が変化し、箏の伝承も限定的になりました。箏は完全に消えたわけではありませんが、後に近世箏曲として広く発展する前段階では、雅楽や限られた伝承の中で受け継がれていた面が大きいと考えられます。

安土桃山時代から江戸時代にかけては、筑紫箏の流れが重要になります。筑紫箏は、雅楽の箏や中国系の音楽文化、当時の宗教者・知識人の音楽活動などが関わる複合的な伝承で、後の箏曲に影響を与えました。

近世箏曲の成立と八橋検校

江戸時代の箏曲を語るうえで欠かせない人物が八橋検校です。八橋検校は筑紫箏の伝承を学び、箏をより広い層に受け入れられる音楽へと展開した人物として位置づけられています。

八橋検校は、雅楽の楽箏とは異なる「俗箏」の流れ、歌を伴う組歌、箏独自の器楽曲の発展と結びつけて語られます。箏曲の歴史では、八橋検校を近世箏曲の基礎を築いた人物と見ることが一般的です。

代表曲として知られる「六段の調」は八橋検校の作として広く伝えられていますが、作品の成立過程や作者については、伝承と研究上の検討を分けて考える必要があります。古典曲は、長い伝承の中で形が整えられてきた面もあるため、単純に一人の作曲行為だけで説明しきれない場合があります。

また、八橋検校が筑紫箏から何を受け継いだかについても、一直線の系譜として断定しすぎないことが重要です。筑紫箏、当時の三味線音楽、盲人音楽家の組織である当道座、そして検校という制度的背景の中で、近世箏曲は形を整えていきました。

生田流の成立と地歌との結びつき

生田流は、上方を中心に発展した箏の流派です。一般には生田検校の名と結びつけて説明されますが、現在の生田流の様式は一人の人物だけで完成したものではありません。

生田流では、地歌三味線との結びつきが大きな特徴になりました。三味線音楽と箏が合奏する中で、箏は単に同じ旋律をなぞるだけでなく、替手や手事物の発展を通じて、独自の響きと役割を持つようになります。

角爪、斜めに構える奏法、地歌との関係などは、生田流を理解するうえで重要な要素です。ただし、これらの特徴も地域や系統、後代の演奏家によって多様に発展してきました。

山田流の成立と江戸の箏曲

山田流は、江戸で発展した箏の流派です。山田検校の名と結びつけて語られ、歌を重視する箏曲の流れを代表します。

山田流では、物語性や声の表現、江戸の都市文化と関わる音楽性が重要になりました。生田流が地歌三味線との結びつきの中で発展したのに対し、山田流は箏を主軸にした声楽的な表現を深めた流派として理解できます。

とはいえ、山田流も一人の創始者だけで現在の姿になったわけではありません。江戸の演奏家、後代の家元・門人、地域ごとの伝承によって曲目や演奏様式が整えられていきました。

明治時代の制度変化と箏曲

明治時代になると、当道座が廃止され、盲人音楽家を中心に支えられてきた制度的な枠組みは大きく変化しました。これにより、箏曲は保護制度の変化、教育制度、西洋音楽の流入と向き合うことになります。

一方で、箏は限られた身分や職能の中だけでなく、より広い層に学ばれる楽器にもなっていきました。明治期には新しい調子や曲作りも行われ、近世の古典を受け継ぎながら、新しい時代に対応する動きが生まれます。

宮城道雄と近代箏曲

近代の箏を語るうえで中心的な存在が宮城道雄です。宮城道雄は作曲家・演奏家・教育者として活動し、古典の継承だけでなく、西洋音楽の要素を取り入れた新しい箏曲を切り開きました。

代表作「春の海」は、箏と尺八による近代邦楽の名曲として広く知られています。宮城道雄は、古典的な箏曲の語法を土台にしながら、旋律、和声感、楽器編成、記譜や教育のあり方にも新しい視点を持ち込みました。

宮城道雄の活動は、箏を「古典の中だけの楽器」ではなく、近代以降の創作にも開かれた楽器として広めるうえで大きな役割を果たしました。

十七絃と現代邦楽の発展

宮城道雄は、低音域を担う十七絃の開発とも深く関わりました。十七絃は、従来の十三絃箏だけでは出しにくかった低音を補い、箏合奏や現代邦楽の響きを大きく広げました。

二十世紀以降、箏は独奏・合奏の両面で新しい作品に取り入れられます。作曲家たちは箏の余韻、調弦の自由度、左手奏法、十七絃の低音などを活かし、現代音楽や舞台作品、学校教育、アンサンブルの中で新しい表現を試みました。

こうした動きは、箏曲を古典芸能として保存するだけでなく、現在も作曲され演奏される音楽として発展させる力になっています。

現代の箏

現代の箏は、古典曲、三曲合奏、現代邦楽、学校教育、ポップスや映像音楽とのコラボレーションなど、多様な場で演奏されています。十三絃箏を基本としながら、十七絃、多絃箏、電子的な音響との組み合わせも見られます。

また、国内だけでなく海外でも箏を学ぶ人が増え、日本音楽の代表的な楽器として紹介される機会もあります。箏の歴史は、古い伝統がそのまま固定されたものではなく、時代ごとの演奏家や作曲家によって更新され続けてきた歴史でもあります。

三曲合奏の古典的な響きから現代作品まで、箏は長い歴史を持ちながら、現在も新しい表現を生み出している楽器です。

箏の歴史を知るための関連用語

参考資料