歴史・人物

生田流と山田流の歴史|箏曲の二大流派はどのように生まれたのか

箏曲には、生田流(いくたりゅう)と山田流(やまだりゅう)という二つの大きな流派があります。

現在では爪の形や演奏姿勢の違いがよく知られていますが、両流派の違いは単なる奏法上のものではありません。生田流は上方の地歌と結びつき、山田流は江戸の語り物音楽を取り入れながら発展しました。

この記事では、箏曲の基礎を築いた八橋検校から、生田流と山田流が成立するまでの歴史をたどります。

生田流と山田流が生まれる前の箏曲

箏は古代に大陸から伝わり、当初は雅楽で使用されていました。現在につながる箏曲の流れが形づくられたのは、中世から江戸時代にかけてのことです。

室町時代末期には、筑後国の善導寺にいた僧・賢順(けんじゅん)が、箏を伴奏に用いる筑紫箏を大成したとされています。

その流れを受け継ぎ、近世箏曲の基礎を築いたのが八橋検校(やつはしけんぎょう)です。

八橋検校は、箏の調弦や作品をそれまでよりも幅広い人々に親しみやすいものへと発展させました。箏組歌や段物などの形式を整えたことから、近世箏曲の祖と呼ばれています。

生田流と山田流は、どちらもこの八橋検校以降の箏曲を受け継ぎながら、それぞれ異なる土地と音楽文化の中で成立しました。

生田流の成立

生田検校と北島検校

生田流の流祖とされる生田検校は、1656年に生まれ、1715年に亡くなった箏曲家です。

生田検校は、八橋検校の弟子である北島検校に師事しました。そのため、八橋検校から見ると孫弟子にあたります。

生田流は、元禄8年(1695年)ごろに関西で創始されたと伝えられています。ただし、生田検校の経歴や創流の詳しい事情には不明な点も残されています。

師の北島検校が新しい流派を興そうとしていたものの早くに亡くなり、その意思を生田検校が受け継いだという伝承もあります。
生田検校の代表曲としては『思川』『五段』が伝えられています。ただし、これらは師の北島検校の作曲とする説もあり、作者については確定していません。

生田流は、一人の人物によって突然完成したというより、八橋検校から北島検校、生田検校へと受け継がれた箏曲が、上方の音楽文化の中で発展して成立した流派と考えられます。

地歌三味線との結びつき

生田流の歴史を考えるうえで重要なのが、地歌三味線との結びつきです。

江戸時代の京都や大坂では、歌と三味線を中心とする地歌が盛んに演奏されていました。生田検校は、この地歌に箏を加え、三味線と箏による合奏を発展させたと伝えられています。

三味線との合奏に対応するため、箏の調弦や奏法にも工夫が加えられました。

初期の合奏では、箏が三味線と同じ旋律やオクターブの旋律を弾くことが多かったと考えられています。その後、箏独自の旋律を加える替手や、器楽的な手事が発達し、複数の楽器が異なる動きを見せる豊かな合奏へと発展しました。

このように、生田流は地歌と箏曲が密接に結びつくことで、現在の三曲合奏につながる音楽文化を形成していきました。

上方から全国へ広がった生田流

生田流は京都や大坂を中心に発展し、その後、江戸、名古屋、九州など各地へ広がりました。

各地域では、土地ごとの地歌や箏曲の伝承と結びつき、さまざまな芸系や会派が生まれています。そのため、現在の生田流は一つの組織だけを指す名称ではなく、多くの系統を含む大きな流派区分として使われています。

広い意味では、山田流以外の箏曲の系統をまとめて「生田流」と呼ぶ場合もあります。

山田流の成立

江戸で生まれた新しい箏曲

山田流の流祖である山田検校は、1757年に生まれ、1817年に亡くなった箏曲家です。

山田流が成立したのは、江戸時代後期の天明・寛政年間、18世紀末ごろとされています。生田流の成立からは、およそ100年後にあたります。

当時、箏曲は京都や大坂を中心に発展しており、江戸では上方ほど広く普及していませんでした。

山田検校は、上方から伝わった箏曲を学んだうえで、江戸の人々に親しまれていた音楽表現を取り入れ、新しい箏曲を作り上げました。こうして成立したのが山田流です。

河東節や謡の影響

江戸では、歌舞伎や浄瑠璃に関係するさまざまな三味線音楽が栄えていました。

山田検校は、江戸浄瑠璃の一つである河東節をはじめ、長唄や能の謡などの表現を箏曲に取り入れたとされています。

そのため山田流の作品には、歌詞の物語を伝えることを重視した曲が多く、登場人物の心情や場面の変化を声で描き分ける表現が発達しました。

山田流を代表する古典曲には、『葵の上』『熊野』『小督の曲』などがあります。能や古典文学を題材とし、物語性のある詞章を箏歌によって表現する作品です。

箏の旋律だけでなく、歌の節回しや言葉の扱いも山田流の大切な要素となっています。

江戸での流行

山田検校が作り出した箏曲は、江戸の人々の好みに合い、大きな人気を得ました。

江戸時代の滑稽本や随筆にも山田流の流行が記されており、免状を取得する人や山田流の歌を評価する人々の姿が描かれています。

山田流は、上方で育った箏曲をそのまま江戸へ移したものではありません。江戸の語り物音楽や文学、都市文化を取り込むことで成立した、江戸独自の箏曲でした。

生田流と山田流の違いは歴史から生まれた

生田流と山田流には、爪の形や構え方、音楽表現に違いがあります。

これらの違いは、単に流派ごとに決められた形式ではなく、それぞれが発展した音楽文化と深く関係しています。

項目生田流山田流
成立時期1695年ごろと伝えられる18世紀末ごろ
主な成立地京都・大坂を中心とする上方江戸
流祖生田検校山田検校
音楽的背景地歌・地歌三味線河東節などの江戸浄瑠璃、長唄、謡
表現の傾向手事や合奏など器楽的な表現が発達歌と物語性を重視する作品が発達
箏爪四角い角爪先端が尖った丸爪
演奏姿勢箏に対して斜めに座る箏の正面に座る
三味線主に地歌三味線山田流独自の細棹三味線

ただし、これらは全体的な傾向です。

生田流にも歌を大切にする作品があり、山田流にも器楽的な聴きどころがあります。現在では両流派の奏者が共演する機会も多く、現代作品では流派の違いを越えた演奏も行われています。

明治時代以降の生田流と山田流

明治4年(1871年)に当道座が廃止されると、それまで当道組織によって支えられてきた箏曲家たちは、新しい社会制度の中で伝承を続けることになりました。

大阪や京都では、生田流系の箏曲家によって新しい歌曲が作られ、明治新曲と呼ばれる作品群が生まれました。

東京では、山田流の演奏家が近代的な音楽教育にも関わりました。明治時代に設置された音楽取調掛では、山田流箏曲家の初世山勢松韻らが箏曲の整理や五線譜化に携わっています。

大正から昭和にかけては、西洋音楽の要素を取り入れた新しい箏曲や、合奏のための作品も次々に作られました。十七絃箏をはじめとする新しい楽器も登場し、箏の音楽表現はさらに広がっていきます。

生田流と山田流は、それぞれの古典を守りながら、近代以降の新しい箏曲文化にも大きな役割を果たしました。

習う流派によって何が変わる?

これから箏を習う場合、生田流と山田流のどちらを選ぶかによって、使用する爪、演奏姿勢、楽譜の表記、最初に習う曲などが異なることがあります。

ただし、どちらかの流派が優れているということではありません。

教室を選ぶときは、流派名だけでなく、先生が得意とする曲、古典と現代曲の割合、歌の指導、合奏の機会なども確認することが大切です。

特に地歌や三曲合奏を学びたい場合と、山田流の箏歌や物語性の強い古典曲を学びたい場合では、教室選びの基準も変わります。

まとめ

生田流と山田流は、どちらも八橋検校以降の箏曲を受け継いで生まれた流派です。

生田流は江戸時代中期の上方で、地歌三味線との合奏を通じて発展しました。山田流は約100年後の江戸で、河東節などの語り物音楽を取り入れ、歌と物語性を重視する箏曲を作り上げました。

両流派の爪や姿勢、演奏表現の違いは、それぞれが育った地域と音楽文化の違いを現在に伝えるものです。

生田流と山田流の歴史を知ることで、同じ箏から生まれる音楽にも、異なる美意識と表現の方向性があることが見えてきます。